

兵庫県、西宮市にある1軒の日本料理屋。
夕方になれば常連のお客さんで賑わい、料理にお酒に会話を楽しむ姿がガラスの窓に映る。
株式会社 大翔(だいしょう)、屋号は和桜(なお)。
大将の名前は神原勝(かんばら まさる)、
そう、その大将とは僕の実の父であり、店は実家、僕の人間としてのルーツを培った場所である。
商号は1つ上の兄である大侑(ひろゆき)と翔太(しょうた)の頭文字を繋げた言葉であり、屋号である和桜(なお)は妹の名前だ。
お盆休みのタイミングで帰省する機会があったので、久しぶりに父と2人でお酒を交わして呑んだ時のことである。
僕から会話を始めた。
僕:「親父のこれまでの人生を教えてや」
唐突な僕からの質問に父は少しびっくりした顔で僕を見たが、
お酒の杯数が増えるごとに過去の事や仕事への考え、これからの事を語ってくれた。
そもそもなぜ書こうと思ったのか。
日本にある会社の数は約400万社ほどと言われている。その中でも従業員が5名以下の会社の割合は8割を超える。そして業種・業界の数は約120種類。
この記事を読んでいる方は、僕のことですら知らないだろうし、ましてや僕の実家が日本料理屋であることはもちろん知らなかったと思う。それと同じように世の中には僕自身も知らない会社がほとんどなのだ。
でもふと考えてみると、会社の創業者に限った話ではないが、普段知らない業界での仕事やその想いを知る機会はあるのだろうか。
ネクスウェイという会社に入社し、インフラサービスの中にいるおかげか、僕は世の中をこんな風に考えるようになった。
「世の中は誰かが誰かを支えている」。
当たり前かもしれないが、人は自分1人では生きられず、
自分の知らない世界で、自分の知らないうちに支えられていることの方が多いのだ。
それは人だけではなく、”生きる”ということにおいては、自然にも支えられ、動物たちにも支えられている。
実の父に”父の想い”を聞くほど小っ恥ずかしいことはない。
でも自分のルーツであることは間違いない、そう思ったので色々と綴ってみようと思った。
独立をしたのは25歳の時だった。
父の母の生まれは鹿児島県の甑島(こしきしま)、父の父の生まれは兵庫県の淡路島。
祖母と祖父の家系は代々家業として漁師をやっており、祖父も商店街の魚屋の店主であった。
甑島の叔父は今でも漁師として漁に出ていたり、祖母は小料理屋を同じ兵庫県、西宮市で営んでいる。
その家庭の長男として生まれた父は18歳で高校を卒業してから調理師の専門学校に通った。
この頃にはまだ”なぜ”調理師なのかという明確な理由はなく、育った家庭の環境から選択したのだと言う。
専門学校を卒業後は城崎温泉で有名な旅館地で朝から晩まで働きながら、将来の有望株として店舗の立ち上げ人などにも選ばれ、神戸に移動したりしながら腕を磨いていった。
同じ境遇だった数人の友人達は今もなお有名ホテルや有名旅館の料理長として活躍している人もいるらしく、年に1回開催される同窓会の写真も見せてもらった。
僕は聞いた。
僕「将来の有望株として期待されてるのなら独立せずに同じ場所で働き続けることは考えてなかったん?」
父は答えた。
父:「自分よりすげぇ!と思う人がいたり、もっともっとここで学べる!と思えない限り同じ場所に留まるということは頭になかったわ」と。
あくまで父の基準ではあるが、見えるようで見えない将来の不安ではなく、目の前にある自分にとっての面白さを選択してきたのだろう。
そんなこんなで月日は流れ、25歳の時にカウンター席が8つある、各都道府県の地酒が飲め、毎朝自分で目利きをして選んだ食材が食べられる自分のお店をオープンしたのである。
父にとってのクリエイティビティとは。
現在、お店は移転しテーブル席が5つ、カウンター席が8つの大きさになっている。
冒頭で書いた通り、お品書きには値段は記載していない。
それは毎朝仕入れに行き、自分で目利きをして食材を選び時価で提供するからである。
食材の原価が固定であれば値段を記載できるのかもしれないが、全て時価のため決まったお品書きを書かないのではなく書けないのである。
それでもお客さんは来る。
昔からの馴染みの人や人づてに店の評判を聞いた人、その人達はお品書きに値段を書いていないことを気にせずに注文をする。それはなぜだろう。
もし自分が注文する品物の値段が分からなければ不安にならないのだろうか?
僕はその理由を親父への信頼がそれを可能としているという事を幼いときからの記憶や学生時代のアルバイトでなんとなく知っている。
ただ料理を食べるということだけではなく、
父の選んだ食材、作った料理を信頼して、心から楽しんでそれらを食すのである。
1番初めの店をオープンさせたときの全国の地酒が飲める日本料理屋も
時価の値段であったとしても美味しい料理が楽しめるお品書きに値段が書いていない日本料理屋も
当時の飲食店の考えからすると当たり前ではなかったし
今も近隣の店で時価の値段で営んでいるお店はない。
選択の全ては親父の感覚であり、創りたいと頭に浮かんだものを本当に実行してきた集大成なのである。
父が言いたかったことを僕はこう解釈した。
「自分が今まで培ってきた感覚や価値観で
美味いと思ってもらえる料理すること、それをもし誰かがやってなくてもやってみる。
それが面白いと思えるんや」と。
それが父が持っていた“想い”だったのである。
あとがき
この日、父と呑みに行ったお店の店主は元々父のもとで働いていた方だった。
カウンター越しで語る父に後押しをするように昔話を語ってくれたこともあり、第3者的な目線からも父がどのような事をやってきたのかを聞けて本当にいい機会になったと思う。
身近な人ほど小っ恥ずかしく深い話をしないかもしれないが、その身近な人、親であったとしても、1人の人間として人生を歩んでいるのである。
僕の今の仕事である採用は人の人生を決めてしまうかもしれない役割でもあると考えながら仕事をしている。
将来への希望や悩み、不安など様々な気持ちが行き交う対話を何度も行ってきたこともあり、どんな年齢になったとしても悩みなど絶えないと思う。
そんな時にふとこの文章の中から新たな気づきを拾ってくれたら嬉しく思います。
社内コミュニケーションの内容ではなく家族コミュニケーションが中身になってしまったが、
会社文化も家族コミュニケーションと何か通ずる部分があるのかもしれないと感じました。
関西にお越しの際には、ぜひ父のお店にお立ち寄りください^^
https://hitosara.com/0006080153/
(最後にヒトサラさんに掲載されているURLを貼っておきます。)